奮起湖への旅で当然欠かせないのは現地で半世紀以上も流行っていて、
さらに台湾全土でも有名な特産品「奮起湖弁当」です。
奮起湖弁当がユニークで人気がある理由は、
厳選された材料と長年のこだわりの伝統的な製法で作られているからです。
お米の一粒一粒に伝統的な風味と熟練者の味
に対するこだわりが込められています。 このこだわりこそが、
奮起湖弁当の美味しさを半世紀にも渡って保ち続けている秘訣なのです!
「お弁当、お弁当はいかがですか!」阿里山の森林鉄道列車が汽笛を鳴らす時、列車の乗客のほとんどもお腹がすいてきます。そして千個に上るお弁当が、ほかほかでよい香りを放ちながら大急ぎで列車に運ばれます。このような人気沸騰の場面も、今では奮起湖駅の十数年も前の事となりました。
中華民国71年より前は阿里山公路がまだ開通しておらず、森林鉄道は阿里山へ向かう唯一の交通手段でした。現地の人や観光客など、一台の列車に少なくとも2千人近くの乗客が乗っていました。奮起湖弁当の生産量が最高だった当時の登山食堂「二代目林金坤氏」は当時を振り返ると、懐かしさと同時に切なさも込み上げてくると言います。奮起湖の「弁当王国」の盛衰は林氏一家の成長の哀楽の歴史をほぼ反映しており、奮起湖ホテルの董事長林金坤氏も当時の様子についての話が尽きることがありません。奮起湖でまだ弁当が売られていなかった当時、地元の人々は鉄道の乗客を相手にした商売で生計を立てていました。林氏は当時まだ小学生でしたが、すでに母親の手伝いで麺を売っていました。汽車の汽笛が聞こえると、小柄な林氏は8杯の麺をかかえて急いでホームへ向かいました。下の段に6杯、間に木の板を挟んで上の段に2杯を積んでいました。大人でも持つのに苦労するのに、10歳の子供ならなおさら大変です。最も忘れがたい経験は、ホームの窓口でお椀を高く上げなければならず、時には手がすべって麺のスープを全身にかぶってしまったこともあるそうです。そんな状況であたふたしても、お客が食べ終えてからすぐに列車に上がってお椀を片付け、列車が動き出す前に降りなければなりませんでした。
中華民国50年ごろになって奮起湖では弁当を売り始めました。それまでは観光客は嘉義で弁当を買って食べていましたが、嘉義の天気は熱く、朝つめた弁当が昼になると酸っぱい臭いがしてしまい、多くの観光客はそれでも我慢して食べていました。最初は登山食堂ではばらばらの弁当しか売っていませんでしたが、後々観光客が嘉義の「酸っぱい弁当」に我慢ができなくなり、逆に奮起湖で停まった時に買う弁当が安くて味も良いということで、客の口コミでだんだんに奮起湖弁当の評判が高まっていきました。
民国56年以降、登山食堂の評判はますます高まり、弁当の販売量もどんどん増えていきました。一台の列車で最高1千個に上る奮起湖弁当を販売した記録もあります。通常このような客は前日に予約をしておくのですが、林氏一家はまだ人々が寝静まって夢の中にいる時間から米を洗いかまどに火を起こしていたのです。
民国71年に阿里山公路が正式に開通し、一夜にして状況が変化しました。以前は観光客がこぞって買い込んでいた弁当が、公路が開通した当日、なんと売れたのは10個にも過ぎませんでした。一瞬にして行き交う観光客を目の前に、山間の業者は観光旅行やレジャー産業へ事業転換をするしかなくなりました。そこで十数年前より奮起湖森林観光事業を推し進め、「今日山荘」や「奮起客桟」などが次々建設され始めました。さらに続けて「奮起湖ホテル」も建設され、林金坤氏は「弁当王国」の称号を奮起湖へ向かう観光客の心の中に永遠に残し、奮起湖弁当を従来の伝統的な作り方に基づいて新たに製作し、鉄道で山に向かう乗客が以前のようにほかほかで香りのよい奮起湖弁当を味わえるようにしたのです。